バックパッカーになりきれない中途半端な ”セミバックパッカー” が巡り歩いた旅日記です!
旅日記の第2回目は空中都市 ”マチュピチュ” です。
1995年の冬に、大学からの旅費の補助金をゲットして、南米ペルーをバックパッカーとして1ヶ月間巡り歩きました。
今思い出しても、過酷な旅だったなぁ~と感慨深いものがあります。
マチュピチュに行ったのはペルー旅行の後半で、南米特有の文化や風土に若干慣れてきた頃だったので、落ち着いて見て回れたと記憶しています。
憧れの遺跡の一つだったので、上の有名な写真を撮ることができる高台に立って、眼下を見下ろした時の興奮は今も忘れることができません。。。ついにここまでキターッ!という達成感に満たされました。
ちなみに ”マチュピチュ” とは現地ケチュア語で ”老いた峰” という意味で、奥にそびえているとんがり山が ”ワイナピチュ”=”若い峰” という意味だったと思います。(どうでもよいことを20年以上も覚えているものですね)
マチュピチュは1983年に世界遺産に登録されています。
マチュピチュとワイナピチュです。
ワイナピチュには登山道があり、旅行者も数時間かけて登ることができるとか。そしてワイナピチュからマチュピチュを見ることができるそうです。
僕は体力の限界を感じて行きませんでした...今を思えば若い時だったので、勢いで登ってしまえばよかったです。。。
旅行中の自分は割と保守的で、あまり無茶はしないようにしていました。
何だか神々しい写真が撮れました。当時はデジカメではなくアナログ写真なので、むやみに撮ると後で現像代にとてつもない出費をすることになってしまうので、選んで選んで撮っていた記憶があります。
写真に写っている登山者のような格好の方々は、まさに山越えでのトレッキングで、何日もかけてマチュピチュに辿り着いた猛者達です。そのルートで来た日本人とお話しする機会があったのですが、疲労のため嘔吐を連発する状態なのに、トレッキングツアーは止まってくれないので、身体を引きずって何とかここまで辿り着いたとか...『人生の中で最も過酷な日々』だったとの証言でした。電車で来てよかったぁ、と心底思いました。
遺跡の中には野良リャマや野良アルパカが何匹も歩いていました。野生なのか遺跡で飼われているのかは不明でした。
遺跡に中にはこのように水が流れている場所がありました。”水汲み場”と呼ばれている場所です。このような技術が存在していたので、山奥の頂きに集落をつくることができたのでしょう。
遺跡内には広場もあります。とても開放的で気持ちの良い場所です。
広場から居住区の方を見ています。
何だかとてもかっこいいです。こうゆうとき、デザインのインスピレーションを刺激されていることを感じます。
”インティワタナ” と呼ばれる日時計です。
”太陽をつなぎとめる石” という意味だそうです。
”三つ窓の神殿” と呼ばれる場所です。
窓は東を向いており、夏至の角度に合わせてあるみたいです。
手前の石の台座はマヤ文明やアステカ文明の生け贄のアレみたいですよね。。。その内、マヤ・アステカの遺跡もアップしますので、リアルな生け贄用の台座をご覧いただきたいと思います。
”コンドルの石” と呼ばれています。くちばしがまたもや東を向いています。マチュピチュ自体が太陽信仰の神殿との説が有力なので、太陽に関連した遺物が多く発見されています。
この上に生け贄のリャマを捧げたとか・・・
遺跡から谷底を見下ろすと、ウルバンバ川と線路が見えます。あの路線を使い、世界遺産の古都クスコから汽車に揺られてマチュピチュの拠点となる町 ”アグアス・カリエンテス” に着きました。まちのホテルで1泊し、早朝のバスでマチュピチュにやってきました。
ツーリストの1等車輌ではなく、地元民が使う2等車輌に乗っていったので、周りは地元民でギュウギュウ詰めでした。旅行者がその車輌に乗ることは珍しいのか、いろいろと話しかけられ、地元の方々と触れ合うことができました。ツアーでは体験できない貴重な時間です。
20年以上経った今では観光客も増え、保存のため規制も増えていることでしょう。並大抵のガッツでは辿り着くことができない場所ですが、もう一度訪れてみたい遺跡の一つです。